愛球人はてなブログ。

「ラブライブ」(μ’s、Aqours)、「ハチナイ」(和歌山、きのくに未来学園高校)、「俺の甲子園」(和歌山、国立きのくに未来学園高等学校)を中心に、「マイペース」に「想いのまま」を綴らせて頂くブログです。スポーツ、映画、音楽の感想についても、このブログで言及させて頂くことがあります。

2020年9月、Aqoursよ、悔しさを研鑽に変えよう、そしていつか絶対にドームツアーを叶えよう!そしてコロナ危機(COVID-19)を踏まえて一人の音楽ファンとしていま感じていることも併せて(その1)。

 こんにちは。愛球人(あいきゅうじん)と申します。

 

 今回のブログエントリーのテーマは、

 「2020年9月、Aqoursよ、悔しさを研鑽に変えよう、そしていつか絶対にドームツアーを叶えよう!そしてコロナ危機(COVID-19)を踏まえて一人の音楽ファンとしていま感じていることも併せて。」

 です。今回は、全体のエントリーとしては「第43回(自己紹介編を含めると第45回)」、ラブライブのエントリーとしては「第8回」になります。

 

 今回のブログエントリーの趣旨を、下記にて示させて頂きますと、

 (1)Aqoursの6thドームツアーの中止についていま感じていること、及び、Aqoursとして、Aqours声優の個人活動としてのこれからに願うこと。

 (最初に述べておくと、「Aqoursの6thドームツアーは『埋め尽くせる』状況が大前提、故に『いま強行することは最善とは思えない』という立場を、6月の時点から一貫してツイッターでは述べてきました。また自分は、一人のラブライバー、一人の音楽ファンとして、「個人として成功することが最終目標」というスタンスを一貫して持っています。)

 (2)いわゆる「コロナ危機」に直面する中で、自分が出会えた素敵な音楽の一端について(NiziUについても少しですけど言及します)。

 この2つです。ちなみに今日、つまり「2020年9月25日」というタイミングで今回の文章を綴らせて頂くのは、今日が、今年ブレイクしたある若い女性歌手(シンガーソングライター)の20歳の誕生日であるからが正直大きいです(個人的には、これからに期待大の逸材であると思っています。ちなみに、いわゆる「歌うま少女」は大好きな部類ですし、そこから飛躍しようとしている歌手が生まれていることに、大きな「希望」を感じています)。それが誰のことであるかは、(その4)で言及させて頂きますけど。

 

 で、文章が思ったよりも長くなっていますので、(その1)(その2)(その3)(その4)の4つの構成で書きます。

 (その1)→あるピアニストを通しての「音楽に対する考え方の変化」、及びそれを踏まえて改めて、「μ’s」に出会えた喜び、「μ’s」の社会現象の意義を振り返る。

 (その2)→Aqoursのドームツアー中止に思うこと、そしてAqours及び個人活動に対する自分なりのエールの気持ち。

 (その3)(その4)→いわゆる「コロナ危機」の中で、自分が出会えた素敵な音楽をいくつか。

 

 では、今回の本文を、執筆させて頂きます。

 

 

www.nhk.or.jp

 

 

 9月20日日曜日の朝。自分は関西(大阪)に住んでいますけど、近畿地方では、NHK総合で「音のかたち」という45分間の番組が放送されていて、それを視聴させて頂きました(全国版では、9月25日金曜日の0時からの放送。尤もそのときは裏番組にあたる「BanG Dream!」シーズン3、13話(最終話)を視聴していましたけど)。

 

 取り上げられていたのは、川上ミネさん(ピアニスト、作曲家)。

 京都とマドリード(スペイン)を拠点に活動している、いわば「世界を股にかける」音楽家です。いわゆる「クラシック音楽」になります。

 恥ずかしながら、この番組のときまで(厳密には、事前番組になる「ぐるっと関西おひるまえ」[2020年9月18日放送回]のときまで)、川上さんのことを存じなかったのですけど、番組を視聴させて頂いて、曲作りの過程もですけど、特にクライマックスになる、雨の春日大社でのピアノの奉納演奏(雨でしたので、屋内の特設ステージからでした)。

 「雨が降って、むしろより良くなった」という趣旨のことを川上さんは述べていますけど、雨の春日大社と、川上さんの「流れるような音楽」が、「シンクロ」になっていたんですよね。そう、まさしく自分の中では、「心が洗われる感覚」になったのです。

 

 で、「音のかたち」を視聴し終えたとき、自分の中で、ある「考え方の変化」が生まれました。

 

 「『世界で輝ける日本の音楽』と『国内で輝ける日本の音楽』は、必ずしも同じである必要はないこと。」

 (この場合、「海外の人々に受ける」「国内の人々に受ける」というニュアンスに換言して読んで頂けると、より伝わるかもです。)

 

 そう。川上さんの音楽は、「世界で輝ける日本の音楽」です。

 より正確に述べれば、「世界の人々に、自分の音楽、日本の音楽を伝えたい」という活動スタンスの感じかなですけど。

 で、「世界基準」。これは特に、サッカー指導者(若い世代の人々には、「サッカー解説者」のイメージが強いかなですけど)の山本昌邦さんが、好んで用いている言葉ですけど(実は2004年アテネ五輪の日本代表監督です)、日本の音楽(特にいわゆる「J-POP」)は、「世界基準」からかけ離れていると、少なからず指摘されてきています。

 このことについては、程なくして改めて言及させて頂く感じかなですけど、川上さんの春日大社での奉納演奏は、映像越しですけど、「心を激しく揺さぶる」感覚だったんですよね。ああ、「感動」ってこういうことをいうのかな、と。有難うございます、の感じです。

 

 

 いま、「『世界で輝ける日本の音楽』と『国内で輝ける日本の音楽』は、必ずしも同じである必要はない」と述べました。また、「世界基準」という言葉にも言及しました。これは、自分がラブライバーになった経緯と強くリンクしています。

 

 μ’s」が社会現象を生み出した、あの伝説の劇場版が、2015年のことです。で、自分は、まさしくこの劇場版がきっかけで、ラブライバーになりました(より厳密には、2014年にBSプレミアムで放送された「アニサマ2014」、及び、2015年7月13日の、NHKEテレ「Rの法則」の再放送回がきっかけです。アニサマ2014」のエンブレムは、自分の中では「永遠に心のエンブレム」であるのですけど、これは、自分がμ’sという永遠の伝説に、南條愛乃という歌姫に、内田彩という努力の天才に出会えた喜びと原点を永遠に大切にし続けよう、という思いからです。

 

 そもそも、「アニサマ2014」を見ようと思った、及び、「Rの法則」の再放送回を見ようと思った時期(後者については、本放送回の日は予定があって見られずでとても悔しい思いでした)は、「既存のJ-POPに対する限界感」が、自分自身の中でふつふつと、それでいて確実に(あるいは急速にかもしれません)膨張していっていた時期でした。

 当時、自分は「いきものがかり」の音楽を、特に聴いていました。「YELL」「ありがとう」など、素敵な楽曲がいくつもあるんですよ。

 ですけど、その素敵な音楽に対して、評価がついてきていない感覚があった。これは、いきものがかりのみならずですけど、「本物の音楽」が評価されていないような…、という「激しく強い違和感」でした。

 

 そのような中で、アニサマ2014。特に、「sister's noise」(fripSide)を聴いた衝撃。

 ソロ歌手として(南條愛乃として)の透明感あふれる歌唱と、これが同一人物なのかと(勿論、プラスの意味でです)。そう、「この世界には、この日本の音楽には、こんな『最高に狂っている』音楽があるのか」と(「狂っている」とは、この場合、「褒め言葉的なニュアンス」です)。

 それから半年。「START:DASH!!」「Snow halation」、そしてスクリーンで鑑賞した「僕たちはひとつの光」。

 「これだ!自分が出会いたかった音楽って、きっとこれなんだ!」

 そう強く感じた。そして気が付けば「人生で最高に夢中になれて」、いまの自分がいます。

 

 いわば自分は、2015年、「μ’s」が生み出した社会現象に「乗っかった」立場になるのでしょう(自分の中では「乗っかった」という認識は全くないですけど)。あのときの社会現象は、いま振り返ってもとても強い衝撃です。

 あのときの「μ’s」は、いわば「人が人を呼ぶ」ように、まるで渦のように「巻き込む力」がすさまじかった。風のように駆け抜けた、奇跡のような10か月間。これほどの衝撃、奇跡、伝説は、少なくとも自分の知る限りではこれまで似たような奇跡の歌手(グループ)は日本ではいません。

 (「10か月間」というのは、劇場版の公開日が「2015年6月13日」、東京ドームでのファイナルライブでマイクを置いたのが「2016年4月1日」であるからです。ちなみに2020年1月18日に「ラブライブ!フェス」で、再びマイクを持つことになり、自分もとても嬉しかった一人ですけど。)

 

 2015年、あのときの「μ’s」は、日本の音楽界に風穴を開けました。

 で、この2020年、この「μ’s」の社会現象と、ある意味では恐らく似ていて、ある意味ではない実としては恐らく異なる、でも「歴史は繰り返す」とはっきりといえる社会現象が、既に生まれています。そう、「NiziU」です。

 

 「似ている」、いや、はっきりとした「共通要素」といえるのは、2015年の「μ’s」も、2020年の「NiziU」も、第1のこととして、

 「既存のJ-POPを見限った、本物志向の歌手を蔑ろにする傾向が否めないJ-POPに強い限界感を感じて、異なる音楽を求めた層の受け皿になった」

 ということ。「μ’s」と「NiziU」では、音楽的な傾向は恐らく異なりますけど、「あっ、これが自分の求めていた音楽だ!」「本物の音楽だ!」と感じることができた、という意味では、恐らく共通しているように思います。

 

 第2のこととして、「社会が大きな危機にあること」、及びそれによる「社会の変化という背景」があります。「『閉塞感』を打破できる存在」が求められていた、それに符合できる存在として登場したという意味でも、共通要素といえるでしょう。

 2015年の「μ’s」だと、東日本大震災。特に「絆」「共生」「違いを認め合う」「生きる勇気」ということが、社会的に強く求められており、それは「μ’s」(及び、「Aqours」「虹ヶ咲」にもいえる)の世界観に少なからず投影されていると映ります。

 2020年の「NiziU」だと、「コロナ危機」(「コロナ禍」という表現は自分は正直苦手ですけど、「コロナ危機」だと不思議とすとんと落ちます)。特に「差別をしない」「多様性」「違いを認め合う」「生きる勇気」ということが、社会的に強く求められている中での登場になりました。まだ、音楽にどれほど世界観が投影できているかは全容はわからないですけど、求められているニーズに恐らく符合しているのだろうということの想像はできます。

 

 とはいえ、異なる要素も勿論あります。

 正直、2020年の「NiziU」は、恐らく半分以上は「つくられた社会現象」の感があります(「上から下に巻き込ませようとしている感じ」に近いかもしれない。勿論完全にそうである訳ではないのですけど)。少なくとも、「勝ちにいっている」ことを隠そうとしていないことは、一音楽ファンとして正直感じていることです。

 それに対して、2015年の「μ’s」は、ほぼ完全に「ファンが生み出した社会現象」「ファンが日本社会を巻き込んだ」といえる)であるのです。もっといえば、「日本社会を振り向かせた」のです。

 日本の場合、特にファッションとかで顕著ですけど、流行を「意識的につくろう」とする傾向があります。それと共に、「長いものに巻かれろ」的な傾向、あるいは「数は力」「規模の大きさこそ正義」「強いブランド志向」という傾向も、正直強くあります。それ故であるのか、「草の根的な社会現象」が、少なくともほぼ純粋な形で、かつ大きなスケールとして生み出された事例は、少なくとも自分が知る限りではほとんどありません。

 しかし2015年の「μ’s」は、「草の根的な社会現象」という「不可能を可能にする」、まさしく「それは僕たちの奇跡」を、本当にやってのけたのです。だから「奇跡だよ!」と、強く誇れる感じとしてあるのです。

 

 

 で、自分は、「μ’s」に、「ラブライブ」に出会えたことで、世界が大きく拡がり深まりました東日本大震災の復興支援活動に微力ながら参加させて頂いて、東北に向き合い続ける過程と同等以上に、世界が大きく変わったと自信を持って強く感じています)。これはまさしく、自分自身の「人生の自慢、誇り」としてあるのです。

 「μ’s」「ラブライブ」を切り口に、こんなに素敵な音楽が、映画があるんだと学び感じることができるようになったこと。特に映画鑑賞は、「ラブライブ」の劇場版をきっかけに、すっかり自分の趣味の一つになりました。

 「μ’s」「ラブライブ」との出会いは、既存の「J-POP」との向き合い方も、より前向きな感じへと変えてくれました。「心のメインフィールド」は、「声優アーティスト」「アニメソング」としてあるけど、既存の「J-POP」だって、いいものはいいんだ、この歌手は本物の音楽と感じられる、そう前向きに感じられるようになりました。

 

 正直、例えば、その時々のJ-POPを牽引する(先頭に立つ)歌手(グループ)のファンでいたら、どれほど心が楽でいられただろう、と感じることはあります。例えば、「AKB48」、「乃木坂46」とか。

 (ちなみに「ポニーテールとシュシュ」「365日の紙飛行機」「純情U-19NMB48の楽曲)」「インフルエンサー」など、AKBや乃木坂でも好きな楽曲はいくつも存在しています。)

 あるいは、「Little Glee Monster」(通称「リトグリ」)。正直、リトグリが自分の中で、あと1年~2年ほど早く出てきていたら、自分が効く音楽の軌跡は、また違っていたのかもと思う、それほどに素敵な存在です(というか、リトグリがあと1年~2年ほど早く出てきていたら、「μ’s」がこれほどの社会現象にはなっていなかったかもと正直思っています)。5人のいずれも、とても高いレベルにありますけど(「もっと評価されてよい」と強く思っています、はっきり言って)、特に、manakaさんはその中でも、「すごい」「超絶」と正直強く感じるほどです(ちなみに小学6年生~中学1年生のときの「ものまねグランプリ」に歌うま部門の一般参加者として登場したときの動画があるのですけど、当時から既に「異次元」「レベチ」でした)。

 実は昨秋(2019年秋)に、リトグリの展示会(あべのハルカス)を見させて頂きましたけど、とても素敵だったんですよね。一人の音楽ファンとして、これからも温かく楽しみにし続けていたい、そう強く思っています。

 

 そのような感じですけど、でも自分の中ではやっぱり、「μ’s」「ラブライブ」に出会えたからこそ、「音楽って、映画って、こんなに素敵なんだ」と思えた、それが素直な感覚としてありますし、自分の中では、「μ’s」という存在は「永遠の心の原点」としてありますし(この源流を辿れば、子ども時代に「セーラームーン」に夢中であったことにになるのですけど。その意味でも、ラブライバーになることは恐らく「運命」だったんだろうなと感じます)、「永遠にラブライバー」である、自分の中ではこれははっきりと強く抱くこととしてあるのです。

 だからこそ、今回のAqoursのドームツアーの中止のことは、自分自身、いろいろな想いが複雑に交錯している感覚としてあるのです。

 

 

 では、続きを、(その2)にて綴らせて頂きます。

 (その2)では、「Aqoursのドームツアーの中止のこと」が、執筆内容のメインになります。